物事追及集 二〇一七年四月版
9条がつくる 脱アメリカ型国家 「四月二十三日」
『9条がつくる 脱アメリカ型国家 品川 正治著 青灯社 2007年5月 2刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)
もう少し、筋の通った、人間味のある、建設志向的な「憲法9条擁護説」が見られるかと思って買ってみたのだが、完全に期待外れだった。
『(著者は、)嫌々戦争に行った/行かされたが戦地で酷い目に遭ったから、もう戦争はこりごりだ!ホントにヤダ!だから、戦争はヤメテ!と、憲法9条で叫びたい。』...ということらしい。
(つまり、自分達の悲鳴なのだ。さもなくば、見苦しい命乞いだ。
『武器も闘志も全部捨てるって、憲法第2章9条に書いておくから、決してワシ等を襲わないでくれよ。
ワシ等も、9条は、戦後の日本の平和の礎になって来たと思ってるから、これからも大事にしたいし、これで、世界に平和がもたらされればいいな♪(まぁ、他国でやってる戦争のことなどは知らんが)
これさえあれば、日本は脱アメリカ型国家にも変身出来るはずだ。(どうやるか/どんなのかは知らんが)』
...てな調子で、憲法9条さえあれば、日本国はどんな型にでも変身出来るはずだと、この著者は仰る。
どうも、(「物造り」に努力した/長けた)産業界人とは思えない思考形式・方法だなぁ?と、著者の経歴を見たら、やっぱり!
...“他人の褌で相撲を取るタイプ”の保険会社の社長・会長をされていたそうな。
「物造り」を手掛けた人なら、「道具の役割や保守・保全の仕方」を間違えることなど、まず無い。
「図面」に不備があれば、書き直すことも必要だし、「道具」の切れが悪くなれば研がねばならない。
何時までも、錆びた「道具」を拝んでいるだけでは、まともな仕事など出来はしないし、まともな製品は仕上げられない。
良い仕事をする(日本の)職人達は、種々・様々な道具を、自分で工夫して用意し、常にそれらの手入れをしていると聞く。
...この著者は「道具」をきちんと使える「物造り」タイプではないようだ。
“憲法”は、国民を相互間や外敵から守る為の一種の「設計図」だし、「道具」でもあるのに。
唯一、この本から私が拾ったのは、“憲法9条は、単なる悲鳴か命乞いの文言だ”と分かったこと。
(日本の安全・平和や世界平和を構築するための)「材料」でも「道具」でもない。
・・・そのどちらにも、成り得ない“文言”だと気が付いたのが、唯一の成果かな?(苦笑)
謂わば、暴漢やイジメに遭った時の“か弱い女子供の悲鳴”みたいなもんだ。
この著者は、そんな“悲鳴”や“命乞い”で、“脱アメリカ型国家”がつくれると云うんだから、いい気な/お目出度いもんだ。
“9条は骨抜きにされた”と著者は云うが、そんな「(旧い)道具」だけに頼る考え方だと、決して“良い品物・新しい品物”は造れないだろう。
むしろ、現実に平和を望み、それを少しずつでも実現しようと努めて来たのは、(蔭で粛々と働き続けている)「気弱だが誠実な日本人気質」の方であって、「(神棚に祭った)憲法の条文」なんかじゃあないと思うがね。
三国志 一、二、三巻 「四月十九日」
『三国志 一、二、三巻 宮城谷 昌光著 文藝春秋 平成十六年年十月〜十一月 各1刷 各¥1、619+税』 (購入¥108税込み)
今まで、第八巻までは集めたのだが、第九巻以降がなかなか集められないので、(痺れを切らして、)第一巻から読み始め、先程、第三巻を読み終えた。
物語は、後漢王朝の終末期、宦官らと文官・武官らの血みどろの権力闘争が描かれていて、読んでいて反吐が出そうな気分になる内容だ。
でも、(権力者らの)“私欲から発した権力争い”が、古の時代では、これほど残虐な様相を呈していた事は、ちゃんと知っておかないと、今の時代、これからの時代を考え、予測する上で、知識不足になるだろうと思い、兎に角、必死で読んだ。(苦笑)
しかし、“(漢)王朝”とか“天子”とかいった存在は、配下の権力者らにいい様に利用されるだけの存在、謂わば“正当性や権威の単なる象徴(?)”であって、“哀れで、気の毒な存在”でもある/あった様子が、良く分かる。
特に、女帝の場合、自分達には良くしてくれる宦官らにどれほどの腐敗があっても、その悪性に気が付かないらしいし、自分の生活に痛痒を感じなければそれでいいという“狭量さ”や“愚かさ”も、良く理解出来た。
また、日本の歴史の中で見ると、女性天皇の施政には美談が多かったように伝えられているが、実は政治に関しては、常に成り行き任せではなかったか?...果たして、国全体を慮って主体的に政治が為されたのか?は、疑わしい。
昨今の日本で、女系天皇の可否や、天皇の政治関与云々が議論されては、立ち消えになっているが、そうした歴史的背景も伏線にあるのではないかと思っている。
日本の歴史の中で見ると、国全体が平和で安定している時には、女性天皇でも構わないように見えるが、実は、常に成り行き任せではなかったか?小事に拘って、大事には、まともな決断が出来なかったのでは?
生物学・遺伝子学的に見ると、女性は、自身が保護される側であっても、男性のように自己を犠牲にしてでも、他の皆を保護しよう/救おうという“本能”を持っていないから、喩え“象徴的存在”としてでも不適!ゆえに、私は、女系天皇には、反対だ!
これは“女性蔑視思想”などではなくて、本来持っている人間各自の「能力差」を厳しく評価した上で、それに応じた適切な役割分担をしたい/して貰いたいという願いからだ。
『地球温暖化』論に騙されるな! 「四月十一日」
『『地球温暖化』論に騙されるな! 丸山 茂徳著 講談社 2008年5月 1刷 ¥1、400+税』 (購入¥200税込み)
以前読んだことがあるのだが、米国トランプ大統領の“温暖化論無視政策”を期に、再度買って来て読んで見た。(以前の記事)
これを読めば読むほど、“地球温暖化対策”なんて、国費を使い国を挙げて取り組むほどのものではないことがよく分かる。(逆の“寒冷化”については、多分、生半可な対策では追い付かないだろうと思うが)
“温暖化理論”に関しては、賢い/狡猾な米国や中国などは、当初から、京都議定書などにもサインせず、“「温暖化対策」など何処吹く風...”と知らんぷり/冷静だったわけだ。
学術情報に対する「政治利用」の巧みさを見る思い。
ところが、今の日本では、(温暖化とは別に、)逆様のことが起きているらしい。
日本学術会議の“幹事会学者”連中が、下らない“学術問題の政治利用”をやっているそうだ。
日本学術会議の“幹事会”だけで「軍事的安全保障研究に関する声明」を全体会議に諮らず、勝手に出したらしい。
私達一般人から見れば、“幹事会学者”(研究能力の無い学者/無くなった元学者)連中が、“政府・防衛省が要望する基礎研究などはしない!”と宣言するなんて、単眼的&近視眼的な発想、此処に窮まれり!だ。(“小人閑居して、不善を為す”の類だ!)
声明曰く、
『...学術研究がとりわけ政治権力によって制約されたり動員されたりすることがあるという歴史的な経験をふまえて、研究の自主性・自律性、そして特に研究成果の公開性が担保されなければならない。しかるに、軍事的安全保障研究では、研究の期間内及び期間後に、研究の方向性や秘密性の保持をめぐって、政府による研究者の活動への介入が強まる懸念がある。防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。』
...でもねぇ、研究者が行う共同研究や委託研究には、必ず守秘義務が伴うもんだ。民間でも国でも同じだよねぇ。
それに契約によっては、お互いが絶対に外に開示してはいけない項目も多々あるはずだよ。
なのに、私達日本国の防衛関係の装備研究にだけは問題だ!と、制約をつけるのかねぇ。(明らかにヘン!)
...それに、学術研究が、政治権力によって云々とは片腹痛い!
こうした(勝手に声明を出した)幹事会学者連中こそ、政治権力そのものを振り廻しているではないか!
研究の選択は、各研究者達自身に任せるべきだし、それが「研究の自由」というものだ。
...こんな愚にもつかない“幹事会声明”など、早々に取り消すべきだな。
それに、自分(達)勝手に研究に偏りを付ける/設けるってのは、あるいは、日本学術会議の憲章違反なのでは?
憲章曰く、
『...普遍的な観点と俯瞰的かつ複眼的な視野の重要性を深く認識して行動する。 』
日本の防衛省が研究者達に要望している基礎研究の多くは、やがては、私達日本人全体の「安全保障」にも、また「生活全般」にも関わるものだと思っているのだぞ。
そんな複眼を、幹事会学者らは、知らんのか?!
もしかして、そうした複眼的な視野などには関係無く、“単眼的な反戦、反再軍備、反日思想”によるものではないのかな?
まぁ、その“(悪質)目的”が、只でさえ弱い日本の防衛装備を弱体化させるつもりなら、少しは成功したわけだが。
日本の保育を変える! 「四月三日」
『日本の保育を変える! 山口 洋著 かんき出版 2013年11月 3刷 ¥1、400+税』 (購入¥200税込み)
今、本質では無い処で、マスコミや野党が大騒ぎ/バカ騒ぎ中。(「森友学園」問題など)
「子供達の教育環境」をどのように補充し、整えて行くか?といった話ではなく、“忖度(そんたく)云々”とか“国有地代金の値引き”とか、アサッテの話ばかり。
そんな超近視眼的 バカ騒ぎの中で、この本を見掛けて、読んでみた。
当初は、株式会社組織((株)JPホールディング、(株)日本保育サービスなど)で保育園を立ち上げて、経営され、現在は“保育園経営のサポート”をされている著者(現(株)保育サポート代表取締役)の思想や手法が披瀝されていて、なるほど!と眼から鱗が落ちる思い。
まだまだ、「保育」という業が、“株式会社などで運営・経営出来るモノではない”と思われている頃からの話だから、かなりの周りの偏見や嫌がらせなどがあっただろうが、それらをものともせず、今では“事業としての保育”を実証されて来たようで、大変“優れた業績”だと思う!
早い話、学校教育の補いとして出来た「塾」が、既にちゃんとした市民権を得ている時代に、なぜ「保育」の方はダメなのか?...そうした問い掛けをしてみるべきだ!
それに、昨今は、子供(達)に注ぐべき“愛情”は、親だけのものではまったく不足し始めている時代だから、余計に、親だけに保育を任せておいては、“子供(達)の健全な成長”を損なうことは明らかだ。
従来型の公的・私的な資金援助による事業(福祉法人事業、慈善事業)だけでは、テクニカル面で質の良い/向上性のある“保育”の提供が難しいだろうと思う。
それは、(成長済みの?)保育士から子供達への「支出」だけで、「新たな収入」が何も/殆ど無い仕組みだからだ。
だが、会社組織にすれば、(様々な工夫や努力による)「支出」によって、「新たな収入」が増えることが期待出来るように思う。
その「収入と支出」は、単に「補助金を(何でも彼でも“申請”が必要な)経費に充てる」だけではなくて、子供達の遊具や学習具の更新、保育士達の研修機会や保育手法の研鑽などにも(任意に)活用・配分する仕組みに出来るからだ。
また、「経営内容」なども、「公開資料」によって、一般にも閲覧可能で、多くの株主・第三者がその内容・状況を知ることが出来て、“企業ガバナンス”も要求出来て、(人で不足の?)行政の手を煩わせることもない。
まぁ、“保育の株式会社化”で、全て事が上手く行くものでもないだろうが、その可能性を広げることは、大変重要だと思う。
「流通」だって、民間で担うようになってから、「流通」も随分変わって来たもんなぁ!